2023年3月、ストレートで自己最速の165㎞を出した千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手。
実は、小学3年生の時に父親を亡くしています。
死因は2011年に起きた東日本大震災での大津波によるものでした。
この記事では、若くして亡くなった佐々木朗希投手の父親についてまとめています。
職業が葬儀店勤務だったことや性格、プロフィールなど詳しくお伝えしますね。

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佐々木朗希父親の職業は葬儀屋
【#東日本大震災 関連ニュース】
今日、千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手(20)がプロ野球28年ぶりとなる完全試合を達成した。佐々木投手の父親は東日本大震災の津波で37歳の若さで亡くなったが生前父親は「将来はすごい投手になる」と話していた。今日の完全試合も空から見ていたに違いない。 pic.twitter.com/NuxSkJM6Zn— ボランティア団体Team-K (@vteamk) April 10, 2022
佐々木朗希投手の父親・功太さん(享年37)は、生前、葬儀屋のお仕事をされていました。
メディアでは、父親・功太さんの職業について、「人生の節目に寄り添う仕事」と書かれていましたが…
人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者として。
引用:日刊スポーツ
情報をたどっていくと「葬儀屋さん」であることがわかりました。
葬儀屋さんといえば、不規則な勤務時間で大変なお仕事のはず。
それなのに、休日には必ず子供たちとキャッチボールの相手をするなどして、野球の練習に付き合っていたとのこと。
子供のために一生懸命頑張れる、父親の鏡のような方だったんですね。
佐々木朗希投手はとても愛されて育ってきたんですね。

佐々木朗希父親の死因は震災津波だった
ロッテ・佐々木朗希が完全試合達成おめでとう。
10歳の東日本大震災の津波で父と祖父母を亡くし、実家も流された。
中学生で141キロ、高校160キロ、背番号17は将来170キロとの願いから。2022年164キロ。
そして本日完全試合。すごいね。https://t.co/oR7x100bzG— シルルさん’ (@kensa9) April 10, 2022
2011年3月11日の東日本大震災当時、佐々木朗希投手の一家は岩手県陸前高田市に住んでいました。
陸前高田はその日大津波が到達し、甚大な被害を受けています。
そして、佐々木朗希投手の父親は震災の犠牲となり亡くなったのでした。
母親の陽子さんはその時、仕事で隣町の大船渡にいました。
普段は30分で帰られるはずの道が浸水のせいで3時間かけて帰宅。
そこには3人の息子たちが待っていました。
大津波が来る前に高台に避難したため助かり、母親との再会を果たすことができたのです。
しかし、父親の功太さんは帰ってきません。
大地震から5日後に、親族の家の電話が鳴ります。
覚悟して母親の陽子さんが電話をとると、「見つかりました」と電話の向こうで言う声。
電話口の言葉を聞いた朗希少年は「見つかった!?」と目を見開いたといいます。
期待した「見つかりました」の言葉が、決定的な悲しい言葉であったことをそのすぐ後、朗希少年は知るのでした。

佐々木朗希父親は皆に慕われていた
今日は、東日本大震災から丁度11年。
現在マリーンズで活躍する佐々木朗希投手は、震災当時(9歳)岩手県陸前高田市に住んでいて、津波で父親と祖父母を亡くした。
彼は「今ある当たり前のことを当たり前と当たり前と思わず向き合っていけたら」と語る。彼の心にはいつも、東北の人達の笑顔がある。 pic.twitter.com/zO0WhhTh1V
— 鯉する夕立🎏勝負の終盤戦、いざ尋常に! (@yudachi67koipoi) March 11, 2022
佐々木朗希投手の父親・功太さんは、陸前高田ではよく知られた人でした。
いつもニコニコと朗らかで、3兄弟を愛し、愛された功太さん。
人情あふれる働き者だったとのことですよ。
若いながらも陸前高田ではよく知られた、町を盛り上げる太陽のようなリーダー的存在の父親でした。
佐々木朗希投手のことは、「あの功太の3人息子の真ん中の子だよ」と言えば通じるほどの。
功太さんとの付き合いが長かった、現在、陸前高田市長を務めている戸羽太氏。
以下のように、功太さんと未来を語り合った日々を懐かしんでいます。
「有言実行の人。一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした」と、未来を語り合った日々を懐かしむ。「気さくで、行動力があって。先輩も後輩も、みんなが付いていって」と褒める言葉が尽きない。
「明るく面白い性格で、自分のことよりも他人のことを一番に考えるような優しい人でもあった」と当時を振り返っています。

佐々木朗希父親のプロフィール
佐々木朗希投手「一生懸命生きる」震災の津波で父親ら亡くす https://t.co/J97D048GqN pic.twitter.com/wAkBEK7ZBg
— Koichi Otsuka (@194mac) March 11, 2020
佐々木朗希投手の父親の名前は「佐々木功太」さんです。
震災当時は37歳で亡くなっています。
野球の経験はありませんでしたが、バスケットボールの経験はありました。
スノーボードやジェットスキーも趣味としてされていたとのことです。

その一方、叱る時はしっかりと叱る厳しい父親。
佐々木朗希投手の3つ上の兄・琉希さんのことは特に厳しく育てていました。
その厳しい教育が、功太さん亡き後、兄の琉希さんが父親代わりになって弟2人の面倒を見ることに繋がるのです。
ちなみに、佐々木朗希投手が野球を始めたのは、お兄さんが野球をしていたのがきっかけ。
小学3年生だった朗希少年は、休日には兄の琉希さんと1対1の野球対決をしていました。
それは投手と打者を交互に入れ替えてヒット性の当たりを競う真剣勝負!
それに付き合い、捕手を務めた父親の功太さん。
休日は2人の息子と一緒に練習に明け暮れるようになります。
3つ上の兄と互角に勝負していた朗希少年。
「朗希はすごいよ!将来、プロになれる!」
と父親の功太さんは常々、嬉しそうに語っていました。
キャッチボールをする時は小学3年生の朗希少年にいつも本気で強い球を投げていた父。
心配して止める人を、祖母は「いいんだよ、あれで」と言って制していました。
その時の厳しくも愛にあふれた時間が、家族の思いが、今の佐々木朗希投手に繋がっています。

小さい頃は楽天の田中将大投手が大好きだった朗希少年。
震災で家が流され転校した大船渡の学校で新しい野球仲間ができ、野球に没頭します。
「夢中になれる時間があったおかげで、大変な時も辛い時も頑張れた。
野球があって、野球をしていてよかったなと思います」と朗希投手は少年時代を振り返っています。

まとめ
以上、佐々木朗希投手の父親についてお伝えしました。
佐々木朗希投手が真っ直ぐに育ってきた理由がわかったような気がします。
父親の功太さんに愛され、期待されて、育ってきたんですね。
佐々木朗希投手の立つマウンドの上では、いつも父親の功太さんが見守っています。
佐々木朗希投手の今後の活躍に期待しましょう。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
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